建設の星ゼネコンドー建設の星ゼネコンドー

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第1話ヒーロー誕生!
巨大プロジェクトに立ち向かえ!!

あらすじ

就活に悩む主人公の元に、突如、太閤秀吉の霊が降臨する。
新しい大坂城を造るので、そのプロジェクトを守る
建設ヒーロー「ゼネコンドー」に任命するというのだが…。

解 説
大坂城築城は、いつも巨大プロジェクト

大坂城はこれまでに3回、建てられていることはご存知ですか? 大坂城を建てたのは豊臣秀吉だと習って いると思いますが、実は現在の大坂城は秀吉の大坂城ではなく、3回目に建てられた大坂城なのです。


■豊臣秀吉が権力の象徴として建てた 初代大坂城

豊臣秀吉が大坂城の築城を開始したのは1583年(天正11年)。その1年半後に本丸が完成しました。これが初代の大坂城です。その後、秀吉が死去するまでに、二の丸、三の丸、総構えが順番に建てられました。大坂城は短期間で完成したのではなく、秀吉の生きている間に徐々にできあがっていったのです。それだけ大規模な工事で、秀吉にとっての権力の象徴でした。
当時の天守閣は東西27m、南北22m、天守台からの高さ40m。柱の太さは21cm~30cmもあり、現在の木造住宅の約13倍の断面積で強度は約150倍にもなります。ただし、初代大坂城のそれ以上の記録はほとんど残っていません。絵画史料によると外観5層で、外壁は黒漆塗りの下見板張り、漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、金具や瓦には金箔が施されていたと考えられています。わかっていることは、現在の大坂城が全体に白い城であるのに対して、秀吉の初代大坂城は全体に黒い城だったことです。
1598年(慶長3年)秀吉の死後は、豊臣秀頼が伏見城から大坂城本丸へ移り住んでいます。その時代には大坂は20万都市となり繁栄を極めました。しかし、1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」で徳川家康の大軍に攻められて、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまい、4か月後の1615年(慶長20年)、「大坂夏の陣」で大坂城は焼失し、豊臣氏は滅亡しました。


■秀吉の大坂城をしのぐ徳川家の 二代目大坂城

1620年(元和5年)から、2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て1629年(寛永6年)に完成したのが二代目の大坂城です。その工事では、秀吉の大坂城の石垣と堀はつぶされ、全体に1m~10m程の盛り土をした上に新たに石垣が積まれたので、秀吉の初代大坂城の遺構は地中に埋もれました。 2代将軍徳川秀忠は秀吉の大坂城の2倍の大きさの城をつくるように指示しました。その結果、城郭の広さは秀吉の4分の1の規模でしたが、柱の太さは51cm、高さは58m。総床面積から高さまで秀吉の天守閣を越えるものが築かれ、2重の堀は江戸城をしのぐものとなりました。ここにも徳川家の権力が象徴されていることがわかります。
この二代目大坂城の天守は、現在の天守閣の位置とほぼ同じです。建物は独立式層塔型5重5階地下1階。 江戸城天守(初期)を細身にしたような外観で、白漆喰塗籠の壁面であったとみられています。最上重屋根は銅瓦葺で、以下は本瓦葺であったといわれています。
その後、江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返しています。特に1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失し、以後、天守閣は再建されていません。慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって15代将軍徳川慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡されました。


■市民の寄付で再生した 三代目大坂城

大坂城の天守閣は江戸時代の落雷で焼失してから長い間なかったのですが、1928年(昭和3年)に、当時の大阪市長だった關一氏によって大坂城の再建が提唱され、大阪のシンボルとして復活しました。これが三代目の大坂城で、現在に残るものです。このときの建築資金は市民の寄付によって集められたもので、およそ半年で目標額の150万円(現在の600億から700億円に相当する)が達成されました。昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号です。権力の象徴だった大坂城が三代目にしてはじめて、市民の手でつくられたことになります。
三代目大坂城は、二代目の徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎をし、その上に、鉄骨鉄筋コンクリート造で建築されています。高さは54.8m(天守台・鯱を含む)。現存する世界最古の鉄筋鉄骨コンクリート造です。この天守閣では初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とし、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵を描いています。