第一章 難波津と難波京
難波京

外交・流通の拠点、難波津

古代の大坂は、淀川と大和川の2大河川が合流する難波津を中心に発展しました。古墳時代に中国大陸や朝鮮半島との貿易が始まると、難波津は古代日本の玄関口としての役割を果たし、大坂は外交・交通と交易の中心地となります。
使節の応対のため難波津には大郡という国家機関や、宿泊施設である難波館が設けられました。

難波長柄豊碕京での首都建設

大化元(645)年、孝徳天皇は大化の改新の幕開けとともに飛鳥から難波に都を移します。
遷都先として難波の地が選ばれたのは、難波津という古代におけるわが国きっての国際港を擁していたからです。孝徳天皇が詔した首都建設の規模は明らかではありませんが、都市としての体裁を整えた我が国初の都市建設と言えます。

宮殿内の配置

客殿の様子

難波宮は時代により前期難波宮(7世紀中頃)と後期難波宮(8世紀初め)に分かれます。
前期難波宮は、天皇の居所である内裏と重要な政務・儀式を行う朝堂院、東西に配された役所で構成。これらは全て堀立柱の形式で建てられました。
後期難波宮の時代に建てられた大極殿と朝堂は、前期難波宮では見られなかった瓦が葺かれていました。

副都としての難波京

その後、藤原京、平城京と都が移りますが、難波京は大陸からの使節の往来がより頻繁になり、副都として繁栄します。
また桓武天皇の784年、長岡京遷都の際には、首都造営のため難波京から瓦などを運んだと言われています。長岡京遷都は淀川の水運が利用できることに着目したものと考えられています。


古代大阪の海岸線
古代大阪の海岸線
今から約7000年前、海岸線は平野部まで深く入り込み、東は生駒山麓に至る河内湾でした。後に難波宮が建設される上町台地は半島のように河内湾に突き出し、現在とは大きく異なる地形をしていました。縄文時代中期には、潟の部分が淡水化。弥生時代には大きな湖ができます。その後、この湖は現在の大阪平野となっていくのです。
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